長いプロフィール
三島えり 長いプロフィール
高知県高知市生まれ
ピアノを習い始めたきっかけは、母が「女の子が生まれたらピアノを習わせたい。」と思っていたそうで、
兄が5歳・私が3歳の時に、近所の音楽短大を卒業したばかりの、とても若い先生のところに習いに行くことになりました。
私自身は習い始めた時の記憶がなく、物心ついた時から、いつの間にかピアノを習っていた、という感じです。
普段は「口から生まれてきた」と言われるほどお喋りだったのに、ピアノ教室では全くしゃべらなかったらしく、もう何十年と経った今でも、先生とお話しする機会があれば必ず、「えりちゃんの声を聞いたことがなかった。」と言われます。
その後、家の斜め隣に先生が引っ越して来られ、良いのか悪いのか徒歩数秒の非常に近い距離になり、練習しているかどうかが丸分かりだったので、プレッシャーを感じました。
小学校1年生からは仲の良いお友達も同じピアノ教室に通い始め、レッスン前後になることもあり、だんだん先生の前でも話せるようになりました。
小学校では、1年生の懇談で「お喋りすぎる」と怒られましたし、普段はスポーツが大好きなとても活発な子でした。
ピアノの他にも、スイミング・硬筆・毛筆・絵画・公文を習っていましたが、どれも好きだったし役にたったと思います。
両親は最初から私を「将来はピアノの先生に」と思っていたので、「ピアノの先生になったら、こんなことが良いし、あんなことも良いよ!ピアノの先生になったら良いと思うよ〜!」と度々会話してました。
「結婚して子供が産まれても、家で子供との時間を確保しながらレッスンができるし、もし離婚しても自分で稼ぐことができるから」とのことでした。
ピアノを辞めるという選択肢は、我が家には存在しませんでした。
小学生時代
小学1・2年の時の担任の先生が、音楽にとても熱心な先生だったので、小学2年生から合唱祭の伴奏を任されるようになりました。
初めての伴奏は「さくらさくら」でした。
以来、高校を卒業するまで毎回ピアノ伴奏担当だったので、大学に入るまで合唱で歌ったことがありませんでした。
小学2年からピアノコンクールに参加するようになり、初めての結果は銀賞。
「金賞を貰いたい!」と練習に励み、翌年は金賞をいただくことができました。
自分なりにコツコツ努力し、嬉しい結果をいただけたことは大きな励みになりました。
以来、継続して金賞を受賞でき、思ったように結果がついてきて、自尊心が高まりました。
中3と高1の時は、自分の中でコンクール熱が冷めて練習量が少なくなってしまい、その2回は銀賞でした。
その後再度ピアノを表現する楽しさに魅了され、金賞に返り咲きました。
6歳からはエレクトーンも始め、個人レッスンでしたが、先生がヤマハの子たちとアンサンブルを経験させてくれていました。
エレクトーンフェスティバルのアンサンブル部門でも毎年入賞し、アンサンブルの楽しさや協調する音楽の魅力を幼い頃から学びました。
家庭では父がドラムをやっていた影響で、ジャズや洋楽に触れ、音楽の幅広さに魅了されていきました。
小学4年のある日、テレビから流れたカーペンターズの「Yesterday Once More」に心を奪われ、「将来はピアノの先生になる前に、ポピュラーやジャズをバーやラウンジで弾く仕事がしてみたい」と思うようになりました。
中学・高校時代
自身は、地元の公立中に行って吹奏楽部に入り、高校も公立高校にあった音楽科に進みたいと思っていたのですが、当時の公立中学校はとても落ち着かない環境で、親は安心して通わせられないと感じていたようです。私立女子校のミッションスクールに通うことになりました。
進学した学校には、残念ながら吹奏楽部がなかったため、バスケットボール部を仲間と立ち上げたりと、音楽以外でも仲間と成長する楽しさを経験しました。
高校生になり音大受験のために、新しい先生のもとで学ぶことに。
その先生は、「演奏活動に専念しているため生徒は募集していない」とのことでしたが、見ていただけることになりました。
ドイツ人ピアニストに師事した先生で、音楽性豊かな演奏や、難しかった箇所の具体的な技術指導を的確にいただきました。
新しい先生のレッスンに感動し、
「私も大学でドイツ人の先生に習いたい」と、強い願いを抱くようになりました。
進学先を決めるのに、私の希望は関西でした。
両親は短大ならOKとのことでした。
両親の思い描いていたルートは、最初の先生のように、
音短大→実家に戻ってピアノ教室→実家近くで結婚(いつでも行き来出来る距離で孫の世話)
だったのです。
私は二人目の先生のように、4年制の大学に行きたいと言いましたら、
「4年も家を出たら絶対戻って来なくなるからダメ」と、それまで音楽に関することは何でも協力し、与えてくれた両親に、初めて反対されました。
しばらくの期間、両親と押し問答が続きました。
結局、4年制に行くなら『四国内の大学』という条件がつきました。(四国内なら田舎なので、都会に染まらず実家に戻ってくるだろう、という)
「関西の短大」か「四国の大学」で、どんな先生に習えるのか調べたところ、ドイツ出身ピアニストでザイラー・ピアノ・デュオとして活動されている、エルンスト・ザイラー先生が徳島文理大学に教えに来られているとわかり、「この先生に習いたい!」と思い、徳島文理大学音楽学部に進むことに決めました。
大学
入学後、希望すればザイラー先生に習えると思っていましたが、実際にはオーディションがありました。
無事合格し、憧れのザイラー門下に入ることができました。
ザイラー先生のレッスンでは、
楽譜をオーケストレーション化して読む視点
多彩なタッチと音色の使い分け
フレーズの語り方
音楽全体を俯瞰する耳づくり
など、今も指導の核となっている大切な学びを得ました。
先生が愛された「京都・かやぶき音楽堂」で、門下生とコンサートを聴きに行ったり、先生手作りのお米のおにぎりをいただいたりした思い出も、音楽と共に心に残っています。
大学3年の時だったか、ケントスという全国チェーンのオールディーズのライブハウスがオープンし、バンドメンバーのオーディション募集がありました。
子どもの頃からの「お店で演奏をする仕事がしてみたい」という夢がありましたので、オーディションを受けたかったのですが、学生は不可であったため、ホールスタッフのアルバイトをすることにしました。
卒業する大学の先輩たちがボーカル・ベース・キーボードで採用されました。
オープン後は連日満員御礼で、バンドメンバーの皆さんはひときわ輝いて見え、羨望の眼差しで見ていました。
時々イベントで、スタッフバンドを組みステージに立てる機会がありました。
しかしながら、ここで初めての挫折を味わうことになります。
それまでバンドは好きでも、普段練習していたのはクラシック。
「楽譜」がないと、何をどう弾けば良いのかわからなかったのです。
当時はYouTubeなんて便利なものがなく、オールディーズの原曲が手に入ること自体難しく、あるのは先輩達がライブで演奏しているのを録音した、カセットテープです。
お客さんのガヤガヤした音も入っていて、そもそも音がはっきり聞こえない・・・
それを耳コピする、そんな時代でした。
同じく大学3年の時、母が難病を患ってしまい、そんなに長くは生きられないと言われてしまいます。
親からは「就職しなくて良い、卒業したら家に帰ってきて、一緒に過ごして欲しい」と言われ、大学後半も就職活動なしでのんびりしてました。
大学4年時は、ザイラー先生の他にも、留学から帰国した演奏家の先生にレッスンを受けに通い、卒業時は成績上位者のみが出演出来る卒業コンサートに出演することができました。
大学を卒業する頃には、母の病気が進行してしまい、余命宣告を受けるまでになりました。
卒業後は、毎日母の病院に、夜は父と兄と祖母が交代で泊まり、私は日中付き添うという生活をしながら、ヤマハを受けようかと、最初の先生の所に勉強に通っていました。
そんな中、高知にも新しくケントスチェーンのメモリーズがオープンするため、オーディション募集があり、受けました。
念願かなって合格しましたが、高知ではなく徳島ケントスに配属されました。
余命わずかの母のことが気になりながらも、自分の夢を叶えたく、徳島に行き、その数ヶ月後に母が亡くなりました。
徳島ケントスでは平日は1日6回、週末は1日7回のステージをこなし、ステージが終わって深夜2時・3時から新曲やゲストの曲を耳コピするという、ハードな生活でした。
それでもバンドとして仕事ができる喜び、連日多くののお客様の前で演奏ができる充足感、そして数年前眩しく見えた先輩方のステージに、自分が立つことができ、毎日やりがいを感じていました。
お店がゲストを呼んでくれるお陰で、植田芳暁さん、仲本工事さん、コニーさん、弘田三枝子さん、クリスタルキングなど、その他沢山のプロの方のバックも経験させてもらいました。
数年後、今度は広島ケントスで演奏することになり、広島では以前よりスケジュールに余裕ができたため、ジャズの勉強も本格的に開始しました。
結婚〜現在
結婚後、一旦ケントスからは卒業し、
もう一つの夢でもあった、ピアノ教室を開設。
演奏家としての経験を活かしつつ、指導者としての学び直しにも力を入れました。
エリザベト音楽大学名誉教授・佐藤恭子先生
ピティナ指導者育成委員・沢田菊江先生
に師事し、指導法講座やセミナーで専門的な学びを重ねてきました。
教室を開講して21年。
150名以上を指導してきました。
生徒たちは
学校での伴奏に多数選ばれ
自分のペースでコンクールに挑戦し
結果につながる喜びを経験し
音楽を通して自信を育み
それぞれのペースで大きく成長しています。
また、
中学3年間オール5・オールAの生徒
基町高校・安古市高校
広島大学薬学部など難関校への進学者
もおり、音楽が学習面にも良い影響を与えていると感じています。
保育士受験者はこれまで 100%合格。
レッスンに伺っている幼稚園で、保育士となった元生徒さんと再会したときは、 成長した姿を見ることができ、心がとても温かくなりました。
またソルフェージュを教えた生徒は音大合格を果たすなど、広い分野のサポートもしています。
現在の活動や資格
中学校・高等学校教諭一種免許状(音楽)
ブライダルピアニストとして11年の演奏経験
認知症カフェでの演奏活動10年
バンド活動 20年(ケントス8年)
リトミック研究センター認定講師資格
ピアノ脱力・フィンガートレーナー水谷千佳子先生
「童謡ハッピートレーニング」アドバイザー
コーチングや脱力奏法について学び、レッスンに取り入れている
現在、才能教育心理学・ミキモトメソッド・指導法を継続して学習中
生徒のコンクール入賞累計100回以上
主な受賞歴
ショパン国際ピアノコンクール 地区・全国・アジア大会 金賞(指導者賞受賞)
ピティナピアノコンペティション 本選第2位・優秀賞
リゾナンツァ連弾コンクール 全国大会 優秀賞
中国ユース音楽コンクール 銀賞・銅賞
ブルグミュラーコンクール 中国ファイナル 銅賞
日本バッハコンクール 全国大会 銅賞
ベーテン音楽コンクール 課題曲コース 本選 銅賞
自由曲コース 本選 優秀賞
バロックコース 本選 最優秀賞、
全国大会 第5位、ベスト10賞
グレンツェンピアノコンクール 本選 金賞
など
■保護者様からの声
「明るく、褒めて伸ばしてくださる先生です」
「練習のポイントを丁寧に教えてくれて、子どもが前向きに取り組めています」
「楽しいレッスンでピアノが大好きになりました」
などのご感想を多くいただいております。
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